憐れみの3章
ヨルゴス・ランティモス監督と、主演のエマ・ストーンが3度目のタッグを組んだドラマ。自分の人生を取り戻そうとする男、海難事故から生還した妻を恐れる警察官、教祖になる特別な人を探す女の3つの物語で構成される。共演はジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォー、マーガレット・クアリー、ジョー・アルウィン、ハンター・シェイファーら。
私は海外在住で、先日見に行ってきましたので、感想は最後に載せておきます!
あらすじ
選択肢を奪われてしまったある男は、自分の人生を取り戻そうと格闘している。
ある警察官は、海難事故で失踪するもまるで別人のようになって生還した妻に恐怖を抱いている。
ある女性は素晴らしい教祖になるべく運命づけられた、特別な人物を懸命に探していて……
3部に分かれた作品ですが、どれも深いダークコメディだなという印象です。
キャスト
ヨルゴス・ランティモス監督・脚本。出演はエマ・ストーン、ジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォー、マーガレット・クアリー、ホン・チャウ、ジョー・アルウィン、ママドゥ・アティエ、ハンター・シェイファーらである。
ネタバレ
ここからはネタバレになりますので、知りたくない方はここまででお願いします!
優しさの種類がこの3のストーリーを通して示されていると私は感じました。
1つ目のセグメントはプレモンズのキャラクターは、彼の日常生活のための指示、タイムスタンプとマイクロプランのルーチン、彼のメニューまで、そして彼がその夜セックスするかどうかの指示を渡されなくなったとき、自分自身と現実のすべての感覚を失います。指示がいないと、彼がいないと自分がわからない、何をしていいかわからない、自分が誰かわからない。
こういう感覚はきっと親がなんでもしてきた人に近いのかな?と思いました。
それと同時にこの最後の終わり方がプレモンズは彼のために人を殺すことを要求されますが、断ります、そして別の人がそれをやり遂げようとした時に、自分が彼の一番だったのにと、嫉妬心が湧き、結局殺すんですね。
認められたい欲、これも親の愛情に近いものを感じました。条件つきの愛情。
そして規制された期待からの狂気。なんとなく現代社会の問題を表しているようにも思います。
最後に支配していた彼とハグをして眠る姿が本当に親子のような愛情、支配と依存、というふうに私は感じました。
2つ目のセグメントは海難事故で帰ってきた妻が別人だと感じ、ダニエル(再びプレモンズ)に続き、彼の妻(ストーン)は彼女が主張する人ではないと確信し、自分自身を証明するために非常識なタスクを彼女をに説得します。
彼女の指が食べたい、臓器が食べたい。彼女はそれを彼のために遂行します。
この2つ目は私たちが人間関係に持っている他者に対するイメージやこうあってほしい理想、みたいなものを表しているのかなと思いました。
相手が自分の理想に合わないと、怒り、理想になるように相手を変えたくなる。このストーリーでは虐待、という形でしたが。。
そして相手を変えようとする結果は悪くなる。この世界でもそうですよね。
1つ目の続いて期待、の違う形を感じました。
3番目では、ストーンとプレモンズが演じるカルトメンバーは、死者を目覚めさせることができる女性を探しますが、彼らの教祖(ダフォー)の気まぐれは、この神秘的な女性も特定の身長と体重であり、一卵性双生児を持っていることを指示します。
組織化された信念体系の比喩としてカルトを使用して、信仰とコミュニティの複雑な関係を探ります。
物語では、エマ・ストーンのキャラクターは、カルトが毒性として操作する家族と再接続するために罰せられ、追放されます。
この物語は、自分の道徳を犠牲にしても、個人が信仰やコミュニティのつながりを維持するために行く極端を強調しているのかなと感じました。
この物語は、一部のコミュニティや信念体系が個人の倫理を損なう犠牲をどのように要求するかを批判し、そのような犠牲を必要とするコミュニティは、それが提供するつながりに値しないかもしれないことを示唆しています。
この3つ目は少し変わった目線だなと思いました。
コミュニティ外の人と体の関係を持ってしまい、汚い、のでコミュニティから外される。
こういうシンプルな文章にするとこれも現代社会に通ずる問題かなとも思います。(体の関係とかではなく、人のことをジャッジし、コミュニティからはずす)
この作品は色々な解釈があると思います、観る人によってきっと全然違うと思いますが、あくまで私が感じたもの書かせていただきました。